交流分析では、私どものP、A、Cの基礎がどのようにしてできるかについて考えます。自然の心(C)、人間らしい理性(A)、思いやり(P)などが育つための基礎工事は、大体3才位までに終わります。
俗に“三つ子の魂百まで”といわれるように、その頃までがとくに重視される理由は、人間の脳の発達の基礎工事ができるのが、大体3才までだからです。
子供はみな、不安な状態にあります。産まれたばかりの動物の子供達は、放っておいても自然に育ちますが、人間の子供は母親の愛情、母親とのふれあいが絶対に必要です。
母親が、一心同体の愛情を注ぎますと、子供の心には「こんなに大事にされる自分は大切な存在に違いない」という、自分への信頼が起こります。
母親という人類の代表を通して、自分の価値、他人や世界の存在の意味を感じとるのです。
子供は、母親から大事にされる自分はOK(大事な存在)である、また自分以外の人や自分をとりまく世界も、きっとOKに違いないと感じることになります。
このような自他に対する信頼の基礎になる体験を“基本的信頼”といいます。
自分を信頼し、人を信頼できるという状態の時に、私どもは一番心が安定した状態になります。
このような条件のもとでは、P、A、Cのバランスのとれた成長が一番起こりやすいわけです。
交流分析では、幼時に親とのふれあいが主体になって培われた人間と人生に対する態度を“基本的な構え”といいます。
人間は幼い頃に、自分と他人に関して、その人独特な物の見方を身につけます。
それは、人生に関する、自分なりの結論といってもよいでしょう。
そして、この結論は、大きくなってから得る、生活上のいろいろな結論よりも、はるかに強い影響力をもつのです。
たとえばある人は、“私は価値のない人間だ”あるいは“男はみな獣だ”という結論を得て、人生をそのように見る立場をとることに決めた人があります。
そしてこの立場に基づいて、自分の人生ドラマにふさわしい、ある種の役割を演じる人々を選んでいくのです。
このように、人が自分自身についてどう感じているか。また、他人についてどう感じているか、ということを、人生に対する“基本的な構え”と呼ぶわけです。子供は、生まれ落ちてから、学校に入る頃までに、さまざまな体験を通して、次の四つの基本的な構えのどれか一つを身につけるのです。
1) 私はOKでない、他人はOKである。
2) 私はOKである、他人はOKでない。
3) 私はOKでない、他人もOKでない。
4) 私はOKである、他人もOKである。 |
基本的構えでいう“OKである”あるいは“OKでない”をいう言葉や感じの意味は、具体的には次のようなものです。
OKである
安心感がある、愛されている、いい人間だ、生きている価値がある、正しい、強い、楽しい、美しい、できる、役に立つ、優れている、やればうまくいく、自己を実現している、など。
OKでない
安心できない、愛されるに値しない、みにくい、弱い、子供っぽい、無知である、意地が悪い、できない、バカである、のろまである、失敗する、何をやってもダメ、劣る、自己を実現していない、など。 |
人生早期に芽生える自他に対する“基本的信頼”は、将来の人間関係に際しての安全弁となり、自他肯定(私もOKで他人もOK)の基本的構えを形成して行きます。
ところがもしこの基礎工事に欠陥がありますと、その後の周囲に対する関係のあり方に、ゆがみをもつことになります。
たとえば、本来、何らかの優れた素質をもった子供に、親が不適切な、あるいは拒否的な養育態度(おまえはOKではない!)で臨みますと、その子の人格は(Cが主体)否定されたことになり、その子のCの人格の発展(A、Pへの発展)が阻まれることになります。
その結果、当人は成人してからも、その性格のアンバランスに苦しむことになる可能性があります。
交流分析では、これらのアンバランスは、次の3つの基本的な構えの“ゆがみ”となって現われると考えます。
1) 私はOKでないが、他人はOKである。
これは、自己卑下、劣等感、抑うつに悩む人達の
心境です。
2) 私はOKだが、他人はOKでない。
これは、独善、他罰主義、他人不信などの心境で、
攻撃的、反社会的な言動になりやすい構えです。
3) 私も他人もOKでない。
これは、虚無的な心境で、人生に絶望した自棄的
な生活や、自殺などを招きやすい構えです。
交流分析が目指す健康な人間像は、“私も他人もOKである”という構えをもつ人です。
この構えの人は、自分のストレスを解消するために自殺したり、閉鎖的になったり、あるいは他人を排斥するような手段を用いません。
しかし、この構えは、人がその成長過程で必然的に辿りつく状態ではなく、時間と労苦をおしまずに、自己を訓練することによって培ってゆくものです。
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